鈴鹿8耐黎明期のヨシムラ

  毎年10万人近い観客が訪れることから夏の祭典と呼ばれる鈴鹿8耐。数々のドラマを生み、多くのヒーローを誕生させる檜舞台といえるレースだ。今年60周年を迎えたヨシムラにとっても鈴鹿8耐は縁深い。’78年の初回大会で優勝、世界選手権に昇格した’80年も制し、「ヨシムラ」のカタカナ4文字を世界に轟かせるきっかけとなった。ヨシムラは鈴鹿8耐の黎明期をウエス・クーリーやグレーム・クロスビー、ケビン・シュワンツらと共に闘った。当時の鈴鹿8耐とヨシムラの軌跡を、F1カメラマン原富治雄の写真から振り返ってみたい。

世界耐久選手権が始まった1980年、「鈴鹿8耐」もシリーズの一戦として組み込まれることになり、例年以上の盛り上がりをみせた。上の写真は、ピットで整備するポップヨシムラこと吉村秀雄を写した貴重な一枚。右の写真は、この年のスタート風景。#12、#20がヨシムラのマシンである。このGS1000Rは、エンジンをヨシムラがチューニング、車体はスズキが開発した。

後にHONDAのライダーとしてヨシムラを苦しめる存在となるマイク・ボールドウィン。’78年はウエス・クーリーとタッグを組みヨシムラに優勝をもたらした。

1978年の記念すべき鈴鹿8耐初回大会を優勝で飾ったヨシムラ。発売されて間もないGS1000をヨシムラ流に改造してエントリー。写真はウエス・クーリー。

’78年は海外で活躍するHONDA RCBの凱旋レースになると予想された。しかし、1周目の最終コーナーで転倒リタイア。もう1台もエンジンブローで姿を消す。

当初は市販レーシングマシンの参加も認められていた。スーパーバイク仕様のGS1000との違いに注目。背中の34はクーリーのアメリカでのゼッケン番号。

1980年のGS1000R。この年から車体が赤黒に塗り分けられた。デザインしたのはメカニックの浅川邦夫。現在に続くヨシムライメージカラーの原点となる。

優勝したグレーム・クロスビーを迎えるポップヨシムラ。世界GPライダーのクロスビーは日程の重なるフィンランドGPをキャンセルして鈴鹿8耐に臨んだ。

’80年のスタート前風景。グレーム・クロスビーの母国であるニュージーランド国旗を持つのはポップの次女由美子。クロスビーは、今もヨシムラと交流を持つ。

1982年は台風の影響で6時間に短縮。ヨシムラはエンジンをGSX1000にアップデート。伊太利屋がスポンサーになった関係でテスタロッサ1000Rと名乗る。

1981年型のGS1000Rはリアショックをモノサスに変更。GPマシンRGB500と同じに見えるがスズキが専用に開発した足回りを使用する。写真はテスト風景。

1983年はモリワキ製アルミフレームを採用し、モリワキとの連合軍を結成する。この年に白赤黒のヨシムラヘルメットとクシタニのKラインツナギが登場した。

鈴鹿8耐の魅力のひとつがヘッドライトが作り出す幻想的な風景だ。ピットから他車と識別するためにヨシムラが特徴的な青いライトを使用するのは’86年から。

1984年のクロスビー。排気量の上限が750ccに改められたこの年、ヨシムラはGSX750ESをベースにマシンを製作した。GSX-R750のプロト的存在といえる。

1985年にクロスビーがペアを組んだのは21歳のケビン・シュワンツだった。この年に発売された油冷GSX-R750とケビンの登場は世代交代を感じさせた。

1985年はクロスビーがヨシムラを駆る最後の年となった。#8ケビン・マギー、#21平 忠彦が後方に見える。クロスビーもヨシムラヘルメットで走行している。
写真・原富治雄 解説・神尾 成

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