クルマやバイクに文学はあるのか ー 後編

 前号では『クルマやバイクに文学はあるのか』と題し、その前編として、これまでにクルマやオートバイがどのように表現されてきたのか、どう語られてきたのかを振り返ってみた。後編の今回は、クルマやオートバイを乗ることに、文学的といえる要素が含まれているのか、それは、他の文学的存在と同じように、人を突き動かす原動力になり得るのか、というところに迫ってみたい。

10代の頃の刷り込みが今も自分を突き動かす

大鶴義丹 VS 神尾 成

 劇作家の唐 十郎を父に、女優の李 麗仙を母に持ち、演劇界のサラブレッドとして生まれた大鶴義丹。俳優であるとともに、1990年には『スプラッシュ』で「すばる文学賞」を受賞した小説家でもある。脚本家や映画監督としても確実にキャリアを重ね、2012年にはオートバイ乗りのバイブルと言われる劇画『キリン』を実写映画化して成功を収めた。本誌で2006年から連載を持つ大鶴義丹と編集長の神尾 成のふたりがオートバイ文学論を展開する。

神尾  前号で『クルマやバイクに文学はあるのか』と題し、その前編として、これまでにクルマやオートバイがどのように表現され、語られてきたのかを振り返ってみた。後編は、なぜそれが人に影響を与えたのかなど、もう少し先のところを考えてみたい。とはいえ、文学に明確な定義はないから、今回は文章表現だけに限らず、受け手側の心を動かし、その後のその人の生き方に作用したものを文学だと定義したい。実際に、明治、大正、昭和の文学作品は、多くの人、特に10代の若者の心に入り込み、読んだ側の価値観を変化させた。それに近いものがクルマやオートバイにもあるのではないかというのが今回の特集のテーマだ。

大鶴  そういった観点で見た場合、それに出会った年齢とかタイミングが全てだと思いますね。団塊の世代と言われる昭和24年生まれの村上春樹さんは、どの小説を読んでも彼が10代を過ごした’60年代の空気が濃厚です。例えば、田舎で生まれ育った人が18歳くらいで東京に出てきて、何となく孤独を感じているときに学生運動なんかにバチッと出会ってしまったら、もうそれは生涯引きずるでしょう。僕の知り合いにもそういう人がいますよ。当時は、時代的に今よりずっといろんな「舞台装置」がありましたし、今ほど余計な情報も入って来ないから想いも強くなったと思います。

神尾  10代の頃に受けた影響は生涯に渡って続くのかもしれないな。話は変わるが、文学が文学そのものだった時代を経て、’70年代に文学と同じ意味合いを持ったのはフォークソングやロックなどの音楽だったのではないかと考えている。今の50代から60代の方たちが、まさにその世代。そして音楽の次に’80年代後半から文学的な立場になったのは、日本のアニメーションだと思う。「ガンダム」や「エヴァンゲリヲン」に自分の人生を見出す人がいる。そしてオートバイは少数派かも知れないが、同じように文学的要素があると信じたい。オートバイによって人生が動きだした人がいるのを見て来たし、我々自身がそうだろう。

大鶴  確かに。僕らの世代はオートバイとの出会いは16歳です。ここがクルマとの最大の違いだということに最近になって気付いた。16歳で出会うか、18歳で出会うかは大きな差だなと。16歳は「個」に近い、18歳は「社会」に近いというイメージがあるんです。何も知らない無力な16歳のガキがオートバイと出会ってしまった。これは凄まじい体験だったんです。走り出したとたんにドカーンと訳も分からず凄いエネルギーが全身を駆け巡った。18歳で乗り始めたクルマは、大人になるための出会いと言った感じで全く違う。オートバイと出会った16歳のときの衝撃を今も引きずっている。

『その役、あて書き』扶桑社 著者:大鶴義丹 ¥1,575 40代バツイチのB級映画監督と野心家の若い女優の恋を、映画製作や芸能界の裏側とともにリアルに描いた大鶴義丹が14年ぶりに発表した小説。【左】
『私のなかの8ミリ』脚本・監督:大鶴義丹 ¥3,990 一通の手紙を頼りに見知らぬ土地へとオートバイを走らせる女性を描いたロードムービー。撮影監督を桐島ローランドが務めている。【右】

神尾  オートバイに乗る世代に関して言うと、昭和44、45年生まれくらいを境にギャップがあるように感じる。自分たちとは、そこへ向かうメンタルが違っている気がする。

大鶴  それはよく分かります。’70年代生まれから、ちょっとヒップホップが入ってくるんですよ。僕らはディスコ世代で、最終目標にヴィップルームがあった。でも3つくらい下になるとディスコじゃなくクラブになる。しかもヴィップルームに憧れるのはちょっと違うらしい。

神尾  反発や反抗のスタイルをむき出しにしない世代なんだろう。彼らが免許を取ったのは、暴走族が一段落して、全てのことが整理されたあとだから。レースをしたいやつはレースを、ツーリング派はオフロード車に乗って北海道へ、カスタムにハマればカスタムマニア、みたいに細分化されたことも意識が異なる原因だと思うな。

大鶴  その頃は、もうカオスじゃないんですよ。『あいつとララバイ』のように走り屋と暴走族がケンカするようなこともない。

神尾  ’82年の11月にカウルが認可され、その翌年の春に「RG250Γ」が出た。ここから加速度的にオートバイは進化して、レーサーレプリカの全盛期を迎える。これも世代間ギャップのきっかけになったはずだ。彼らが免許を取る’85年、’86年頃から先のモデルは、’82年以前と完全に別な乗り物になった。

大鶴  それより少しあとの’88年頃のことなんですが、人間を置き去りにして進化したオートバイは、壁にぶち当たっているなと感じてました。僕が親だったら、レーサーレプリカは危険すぎて自分の子どもには乗せたくないと考えてましたよ。それに、その頃のオートバイでは、「物語」を描けなくなっていました。

神尾  走り屋も暴走族もバイク雑誌も’80年代の前半までは、思想的だった。だが中盤以降は情報やスペックが重視されるようになっていく。オートバイに乗る人のマインドもライトでドライになっていったから、そう変化せざるを得なかったんだろう。しかしそれが、オートバイにおける思想を衰退させる要因になったのは間違いない。

大鶴  中三の時の思い出ですが、卒業した先輩がCBXを中学校に乗ってくるんです。「ひと吹かし100円」て。それでも僕らはアクセルを開けてみたい。で、先輩は500円とか600円で5リッターだけガソリンを入れに行くんです。そのときに少しだけ後ろに乗せてもらって。スゲーって、家に帰ってもその感覚が忘れられない。

神尾  想いを温める時間が思い入れを強くするんだよ。それに体験の刷り込まれ方が重要なんだ。その時の匂いとか音とか、目に見えない物の方が深く印象付けられる。それと、思想的というより少し宗教的なんだけれど、10代の頃の自分に「お前はそれで良いのか」と今でも問い質されるときがある。その頃の自分をごまかすことはできないな。

大鶴  そいつはやっかいな奴ですよ。でも下の世代は、そういう感覚を持ってないのかも知れません。

神尾  それが下の世代の良さと言うか持ち味なんだろう。そういう変なこだわりがない分、前に突き進むエネルギーがあるように思う。昭和46年生まれの伊丹孝裕は、マン島TTだったり、パイクスピークだったりにチャレンジして行く。オートバイによって突き動かされているという意味では自分たちと同じ。アイデンティティの縛りが少ない分、常にオリジナリティを求めてる気がする。ある意味で自分たちの世代と闘っているようにも見える。

大鶴  そうかもしれませんね。話は変わりますが、小説でも映画でも、作者や脚本家にとって、それが切っても切れないものなのかどうかが分るって大切だと思うんですよ。作品の中で、作者に刷り込まれている場面をチラッとでも垣間みると、そこにすごく惹かれたりしませんか。

神尾  登場するオートバイのチョイスだとか、ちょっとした改造の仕方だったりとかで、シラケたりするし、ハマったりもする。

大鶴  そうですよね。「海沿いにオートバイがあって、それが黒ければ悪っぽくてかっこいいじゃん」というのは簡単すぎる。

神尾  そういう意味で、表現するということにおいては、どこまで嘘がないかというのは重要なことだ。往年の文学者は、生き方というより、生き様そのものが表現だった。

大鶴  知り合いに同年代の小説家が何人かいますが、案外、普通の人が多いんです。ある種のオタクだと思うんですよ。言わば泥を喰ってない。三島由紀夫のように、最後には文字に退屈して、社会からはみ出してしまうような、そんな人間が表現するものの方が本物で面白い。

神尾  生き様から表現者であり続けているといえば、親父さんがまさにそういう方じゃないのか。演劇人として一貫しているように見える。

『キリン POINT OF NO-RETURN!』
監督:大鶴義丹 DVD(PREMIUM EDITION3枚組)販売元:インターフィルム ¥6,090
バイブル的人気を誇る東本昌平の漫画「キリン」を、監督を務める大鶴義丹のもと実写映画化。バイクに生きる男達の精神性や生き様を描いている。作品のために特別にカスタマイズされたバイクや、公道で繰り広げられるポルシェ911とのバトルなども見どころ。(写真のクリアファイル、パンフレットの他、Tシャツがセットになった特典付きDVDは代官山蔦屋書店のみの取り扱い)

大鶴  同じことをずっとやってきただけですよ。世間が一周して戻ってきて勝手に評価しているだけです。流行りを追わずにそこにいれば時代は一周してくる。ひとりの人間が表現できることは限られていますから。僕は、これからもオートバイの世界を自分なりに表現していきたいという想いがあります。

神尾  前号コラムの「バイクは気持ちが良いから乗っているのではない。バイクに乗らない自分が許せないから乗っているのだ」は名言だった。その言葉に全てが言い尽くされている。オートバイは単に楽しい乗り物ではないし、安全な乗り物でもない。面倒なことや辛いことの方が多い。それでも乗り続けるのは、その人がオートバイに文学的な何かを感じているからだと思うな。だから簡単に降りることはできない。

大鶴  オートバイに乗る人は、社会的な価値よりも個人的な価値を求めているので、一般的な理屈は通じない人種です。それにオートバイ自体が社会に必要とされていないから乗っているだけでその人を枠からはみ出させてしまう。そこがまさに文学だと言えるところではないでしょうか。僕は10代のときの刷り込みから逃れられないまま、オートバイに乗り続けていくでしょう。

写真・渕本智信、菅原康太、長谷川徹 撮影協力・代官山蔦屋書店(キリンDVD)

「クルマやバイクに文学はあるのか」の続きは本誌で


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