女性がモータースポーツをするということ

Section 1 二人三脚の完走

 メディア対抗ロードスター4時間耐久レース当日。ある程度予想はしていたものの、予選を走った加藤さんはなんとポールを取ってしまった。加藤さんがポールを取ったことは心から祝福すべきことなのだけれど、取ってしまった…という言い方をするのは、このレース独自のルールにより、第一走者が私だから。初レースでポールスタート。おまけにポールポジションを取ったチームが選手宣誓をするという決まりで、その大役まで仰せつかることになった。選手宣誓で何を言うべきか、ローリングスタートで先頭って、どうやって走ればいいのか。恐らく後にも先にも一生に一度あるかないかという状況にプレッシャーが倍増する。

 自分のエネルギー補給や水分補給のタイミングを計りつつ、選手宣誓の内容を考え、その大役を何とか果たし、いよいよポールポジションでスターティンググリッドに着いた。もちろん緊張はしていたけれど、そのピークはすでに過ぎていて、思っていたより心は静かだった。後はベストを尽くすだけ。練習してきた以上のことはできない。奇跡も起こらない。練習で出せたベストタイムは1分21秒台。本番ともなればほかのクルマもいるので、同じペースで走ることはできないだろう。だからとにかく無事にバトンを渡そう。それだけだった。

 加藤さんがそばにきて握手をした。もう言葉はいらなかった。

 スタートを知らせるサイン音とともに、先導車がゆっくりと走り出す。フォーメーションラップが始まった。遅れないよう近づき過ぎないようスタートする。1コーナーを周り、S字、第一ヘアピン、ダンロップコーナー、第二ヘアピン、そして最終コーナーを曲がると先導車がコースを離れる。徐々にスピードアップして、スタートラインでアクセルを一気に踏み込む。

 これもまた予想していたことではあったが、1コーナーからS字に向かう頃には一斉に両側から速いクルマが襲ってくる。そのとき「ダンッ」と強い振動を感じた。左から抜きにきたクルマと接触してしまったのだ。「あ、ぶつかった」そう言うと、ピットから「大丈夫ですか」の声(ピットとは携帯電話を通じて常時通信を行っていた)。幸い私自身は何ともない。クルマも問題なさそう。「大丈夫」 そう言ってそのまま走行を続ける。しばらくするとまたピットから「若林さんミラーは大丈夫ですか」と聞かれる。よく見ると根元がもげて逆を向いてしまっている。走っているうちに徐々にぶら下がっていき、ぶらんとぶらんと揺れ始める。「まずい。落ちちゃったらどうしよう。オレンジボール(オフィシャルからのピットイン命令)が出たらどうしよう」 不安になって「ピットに入った方がいい?」と聞く。「気にしないでそのまま走ってください」 それがピットの指示だった。

 後で聞くと、このときピットはピットで状況把握のためにみんなが動いていた。何人かがコースに走ってミラーの状態を黙視し、電話でピットに報告する。さらに以前に同じような経験をしたチームメンバーの意見も聞いて、最終的に「すぐには落ちないだろう」と判断したそうである。
 私はピットを100%信頼していたので、ピットがそう言うなら走るだけ。不思議なことに接触による精神的なダメージは特になかった。ただ最終コーナーで、コードだけでつながっているミラーが窓をバンバン叩く音だけは気になったけれど。

 その後、元々ハンデとして加藤さんに課されていた「1分間ピットストップ」を、規定通り第一走者である私が消化し、残りの周回を無事に終え、第二走者の加藤さんにバトンをつないだのだった。ドライバー交代時にミラーを素早く応急処置し、ミラーの件も一安心となった。

 バトンを受け取った加藤さんはこの後、前を走るクルマをのきなみ抜いて行く。加藤さんのスティント中にSCが入ってしまったのは残念だった。第三走者は佐野新世さん。新世さんは暗闇に慣れるのに少し苦労したようだったけれど、きっちりと自分のスティントをこなしてくれた。第四走者はダークホースの篠原祐二さん。レース歴の長い篠原さんも見事な走りで1台1台、確実に抜いて行く。何と頼もしいチームメイトたちだろう。最後はもう一度加藤さんがハンドルを握り、チェッカーを受けた。

 ポールポジションからスタートし、私のスティントで全車に抜かれ、それでも懸命に追い上げ、最後は17位。それが私の初レースだった。

 思えば、これは初めてモンゴルラリーに出た2009年と同じ。あのときのゴールで私は同じエントラントの尾崎さんから「若林、来年は一緒に、ちゃんとレースしような」と、そう言われたのだ。今回も完走はしたけれど、私自身はレースをするまでには至っていない。参加するのが精一杯。あのときと同じだな、それが走り終えたときの感想だった。

 でも違っていることもある。それはその後4年続けて参戦したモンゴルラリーを通して、レースをするというのがどういうことか、少しだけ学んでいたこと。だから短い時間しかない中で自分が何をすべきかは分かっていたと思う。加藤さんのいうとおり、「怪我なく安全にレースを完走すること」 それは周囲を危険にさらさないということでもある。ジムカーナやサーキット走行の他にも、座学やシミュレーター練習のため、3日に一度は加藤さんのショップ、TCR JAPANに通い、暑さの中で40分走りきる体力をつけるため、可能な限り、毎日5、6キロ歩いた。本番は「遅い」という意味では本当にふがいない結果だったけれど、ライン取りに迷うこともシフトミスをすることもなかった。ふがいない自分に落ち込む一方で、これ以上はできなかったと思う自分もいる。

私がこのメディア対抗4時間耐久レースに出場することになって、当日、海外出張でどうしてもその場に居られないことが決定的となったとき、編集長の神尾は、私にとってのベストメンバーをチームアップしてくれた。まずは先生として、神尾の知り合いでもあり、ロードスターでは日本一の使い手である加藤彰彬さん。本当に加藤さんと二人三脚の道のりだった。感謝してもしきれない。

 それから同じく神尾と15年以上もの付き合いのある佐野新世さん。佐野さんはバイクのモタードの名手で、世界最高峰のフランス・モタード選手権に長年出場した経験を生かし、今年四輪に転向してきた。そしてロータスのショップ、ウィザムカーズの代表であり、ロータスではこれまた日本一の使い手である篠原祐二さん。佐野さんと篠原さんは、私にとってはモンゴルラリーを通して知り合った仲間でもある。佐野さんや篠原さんが、スポーツ走行すらしたことがない私とチームを組んでくれたのは、恐らくモンゴルラリーを前提とした信頼があったのではないかと思う。そのことが本当にうれしかった。

 私はもともと誰かと何かをするのが苦手。若いときからなるべく一人でいられる環境づくりをしてきた。それがラリーを通じて知らぬ間に仲間ができ、今度はラリーの仲間とサーキットでチームを組むことができた。篠原さんは今年もモンゴルラリーにバイクで出場したのだが、その出発の数日前に、無理をしてSUGOの耐久レースに来てくれた。佐野さんは本番の3日前、私の気分転換にと加藤さんと一緒にカートに付き合ってくれて、本番前日も、私のために、ピットとの通信用に携帯電話のセッティングをしてくれた。加えて、この耐久レースの練習を通じて、加藤さん率いるTCRのメンバーとも仲良くなって、みんなが初心者の私をケアし、支えてくれた。

 今、私は加藤さんの言葉を借りると、「自転車で言えば、やっと補助輪が外れた状態」 だからもう少し継続して練習してみようと思っている。その結果、上達するかしないかは分からない。上達しなければ、「自分にはできなかった」とその結果に向き合ったうえで止めるだろう。人にはできることもあれば、できないこともある。初めてのモンゴルラリーから4年が経って、今、私の心に響くのは「若林、今度はちゃんと一緒にレースしような」というあのときの言葉である。


加藤彰彬さん(TCR JAPAN代表)

 しばらくレースから離れていた自分に、2005年のメディア対抗ロードスター4時間耐久レースで声を掛けてくれたのはaheadでした。だからその恩返しの気持ちもあって、どうしてもポールポジションを取りたかったんです。若林さんのことも当時から知っていたので、神尾さんから「若林を何とかしてくれ」と頼まれたことは、自然なことでした。

「安全にケガなく完走すること」これがまず何よりも大事な目標。そのために「できそうにもない無理なことはやらせない」ことが大前提で、ジムカーナ、シミュレータ、町中の運転でもできるトレーニング、サーキット走行、座学。それらを繰り返すことが具体的な方法でした。

 最初に1泊2日のジムカーナに参加してもらったのですが、それはどの程度ちゃんとやれる人かを見極めようという意味もありました。僕は無理な人には無理って言います。驚いたことに若林さんは参加者の誰よりライン取りがきれいでした。コース図を見る、コースを歩く。そういうことにも真剣に取り組んでいた。自分にとって必要な情報に対して貪欲な人だと思いました。コースを覚えるのも早かったし、一度失敗したことを次はやらない。

 短い時間なので、本人の得意なところを伸ばすことに重点を置くことにしました。つまり若林さんの場合「ライン取り」。ラインさえきれいなら、例え速度が遅くても周りは怖くないんです。周囲にとって一番怖いのは、初心者にありがちなのですが、予想できない動きをする人。若林さんはある意味「安心して抜ける人、抜きやすい人」だったと思います。

 とにかく、何かを指摘すると次までに必ずそれを直してきました。お稽古ごとで言えば、その日の宿題をせずに次のお稽古にくるとか、そういうことはなかった。その場を離れたらそれで終わりじゃなくて、改善すべきところは普段の運転でも改善するように努力し、次に自分のすべきことのイメージを固めてから、練習に来ました。それはなかなかできないことで、そういうことからも若林さんの真剣さが伝わってきました。

 ただ、自分で自分を追い込み過ぎて、本番の一週間前くらいからはプレッシャーで精神的にかなりぎりぎりな感じ。少し圧を抜いてあげないと駄目だなと。弱点と言えばそうかな。

 本番で接触があったとき、オンボードカメラの映像で、その後も若林さんが落ち着いて走っているのが分かった。ハンデ消化のためのピットインもしないといけなかったが、僕は、多分、若林さんは今の集中力を切らして欲しくないんじゃないかと思ったので、本人が疲れたから入りたいというまで待ちましょうと言いました。そういう意味では、スタート直後は混乱もあったけれど、みんな若林さんのスティントを安心して見ていました。

 ドライバーだけではなくて、メカニックやそれ以外の人たち(ピット作業、給油担当、燃費管理、ホスピタリティなどなど)全員が、ただ言われたからではなく、自分のやるべきことを考え、自分のパートをミスなく全うしようと取り組んだ。みんなで意見を出し合い、尊重し、考えて、どんどん作戦を練り直し、遂行していきました。ただ”楽しい”でもなく、ただ”プロフェッショナル”でもなく、耐久レースの醍醐味をそれぞれが味わえたと思います。でもそれは若林さんの存在も大きかった。数ヵ月の練習の間には、チームのメンバーと一緒になることも多かったし、それを通じて、みんな彼女の真剣さを感じていたと思います。レースってやっぱり一人ではできない。「頑張っているあの人のために」と、チームのみんながそう思えることが本当に大事なんです。

 自転車で言えば、若林さんはまだ補助輪がやっと外れたという段階。継続が大事だと思う。でも、本人が自転車なんか乗りたくないけど、仕事だし仕方ないからというだけで続けるのなら止めた方がいい。危ないから。人によって面白さ、楽しさを感じるところは様々だけど、何か楽しみを見つけられないとツラいだけ。若林さんは、面白いとか楽しいとかを感じる余裕がないほど追い込まれた中でやっていたので、若林さんの気持ちは本当のところどうなのかなと思います。

文・若林葉子 写真・渕本智信/佐原僚介

[続きは本誌で…]


定期購読はFujisanで