Another Sky aheadフィルムはなぜ生まれたのか ~開発者インタビュー

文・若林葉子 写真・神谷朋公

aheadフィルムは、綱島敏也という、クルマに取り憑かれ、クルマに人生を捧げてきた男の物語から生まれたのである。


 綱島敏也。aheadフィルムの生みの親、その人である。

 1962年生まれ、現在60歳の綱島がaheadフィルムをこの世に送り出すまでには長い長い物語がある。それは綱島敏也の人生の軌跡そのものでもある。

 生まれは東京。父親は綱島モータースというバイク屋を営んでいた。まだ記憶のない幼い頃、工場でバイクの部品を手渡すといつまでもひとり機嫌良く遊んでいるような子どもだったという。もの心ついてからもオイルの匂いを嫌だと思ったことは一度もなかった。ただ、バイクよりはクルマが好きだった。将来はクルマに関わることがしたいという漠然とした思いはあったが、深くは突き詰めず成り行きで入った大学では「何か違う」という違和感ばかりが募っていった。

 ちょうどその頃、ドイツ企業に就職した先輩が本国に転勤になり「遊びにこいよ」と声をかけてくれた。クルマ好きの綱島にとってドイツは憧れの地。渡りに船でドイツに飛んだ。

 先輩が住んでいたのはドイツ南西部、シュトゥットガルトの隣町。シュトゥットガルトといえばポルシェ、メルセデス·ベンツなどの自動車メーカーのみならず、ボッシュをはじめとする自動車部品やチューナーなど関連企業が軒を連ねる自動車産業の本拠地だ。綱島は見聞を広めつつ夢中で日々を過ごすうち、気がつくと1年近くが経っていた。帰国する頃には「自分はこの世界で生きていきたい」と確かな決意が生まれていたという。

 帰るとすぐ大学に退学届けを出した。後から報告したら父親は激怒し、売り言葉に買い言葉で家を出ることになった。なんの蓄えも資格も信用も持たないまま19歳で社会に放り出された綱島の怒涛の如き人生はこの時から始まったと言っていい。

 社会人としてのスタートは新聞広告で見つけたヤナセの整備士の仕事だった。もちろん整備士資格など持っていなかったから、それから9ヵ月の間、やったことと言えば下回りの洗車ばかり。「後から入った整備士資格を持った後輩にはちゃんとした仕事が与えられて悔しい気持ちもありましたけど、キャデラックやメルセデスが目の前にある、それだけで楽しかったですね」

 腐らず真面目に働く綱島青年にやがてチャンスは巡ってくる。その当時、時代はキャブレターからインジェクションへの転換機にあった。何十年もの経験がある工場長でさえ、インジェクションを前にして驚きと戸惑いを隠さなかった。「キャブなら何年やっても追いつけないけど、インジェクションを勉強したら工場長とも肩を並べられるんだ!」 そこに未来を見た綱島は図書館で資料を探しては読み漁った。

 黎明期のインジェクションに故障はつきもので、新車での故障は会社でも大問題になっていた。慌てる工場長を前に、その原因を推測して見せると、その意見が正しいことが2度3度と重なり、次第にクルマを触らせてもらえるようになった。同時に整備士資格を取るように勧められ、夜間学校に通って2級整備士、そして検査員の資格を取得した。「好きなクルマを触ることができて、直すことができて毎日が薔薇色だった」と綱島は当時を振り返る。

 その薔薇色の日々と訣別し、独立したのは28歳の時。ある時期から独立のことは頭にあったから、自ら希望して営業職に異動し、ひと通り経験を積んだ上でのことだった。それまでの経験を武器に会社の先輩と2人で、自動車販売の仕事を始めた。事業は順調過ぎるほど順調に成長し、時代の波に乗って並行輸入も手がけるようになる。そしてその波がピークを超えた頃には自動車販売の事業に一区切りつけ、輸入ホイールなどの部品販売へと事業転換した。そして部品販売の事業が落ちついたころ、いよいよaheadフィルムが登場するのである。

 綱島はこのように次々と自分のアイデアを形にし、事業として常に大きな成果を上げてきたのだが、それを可能にしたのは実は若かりし日に過ごしたドイツでの日々だった。シュトゥットガルトを本拠地とするチューナーの人々との出会いが綱島のその後の人生を決定づけた。並行輸入で成功したのも、輸入部品販売で成功したのもその裏には、かつて出会ったドイツの人たちの協力があった。今のように通信が自由な時代ではなかったが、手紙や、時には電話で絶やすことなく連絡を取り合い、綱島とドイツの友人たちとの間にはいつしか確かな信頼関係が結ばれていた。彼らの協力無くして、綱島の事業の成功はなかったと言っていい。

 実はaheadフィルムもそのおおもとは某チューナーの友人のアイデアによるものだ。出会った頃はヒラの社員だった彼も30年が経つ頃には社長になっていた。「彼は開発マニアでもあって、向こうに行くたび、自分のアイデアを僕に見せるんです。『これすげえだろ』って。すげえなと言うと、満面の笑みで喜ぶ。商品化すれば? というと、『いや、お前がすごいって言えばそれで満足なんだよ』と」 その友人は研究者でもあって、開発そのものが趣味であり楽しみであり、本人は商品化には全く興味がなかった。でも、「お前ならやれるかもしれないな」と、綱島に走り書きの化学式のメモを手渡してくれたという。

 綱島はその化学式をもとに猛勉強し、日本から彼のもとに何度も通ってさらなるヒントをもらい、サンプルを作り、製造先の工場を探し、製品化に向けて奔走した。働きすぎて体を壊すほどに。「僕はゼロを1にするのが好きなんですね。それにやっぱり現場が好き。楽しいんです」

 もちろん信頼してアイデアを託してくれた友への責任もある。しかしもう一つ、綱島氏にはこれまでの事業とは違うモチベーションも生まれている。「『この商品なら社会に役立つわね。やっと世の中のためになる商品を作れるようになったのね』と妻に褒められたんです。本当に嬉しかったです(笑) この商品の良さを胸はって娘たちにも言えますから」 aheadフィルムは綱島敏也の友情と情熱が世の中に生み出したものなのである。

綱島敏也 Toshiya Tsunashima

1962年生まれ。1989年(株)TSMを設立し、自動車関連用品の企画、製造販売を開始。その後、ケミカル製品の研究開発に従事。2018年UV100%・IR99%カットフィルムの開発に成功、特許を出願する。2020年 『日刊自動車新聞用品大賞大型車部門賞』受賞。現在は、ウインドプロテクションフィルム開発に従事。

aheadフィルムはなぜ生まれたのか
~開発者インタビュー 若林葉子

定期購読はFujisanで