クルマに哲学は必要か

クルマやバイクを純粋に好きだと言えて、走ることに夢中になっていた頃には分からなかったことがある。

クルマやバイクのキャリアを重ねて、酸も甘いも噛み分けてきた今だからこそ、より深くクルマやバイクを知的に楽しむことができるはずだ。

一説によると「真理を探究する知的営み」のことを哲学というらしい。

クルマやバイクに乗ることも、クルマやバイクを愛することも、クルマやバイクに関する仕事をすることも知的に探究し続けることで哲学になりうるのだろうか。


人生をかけて紡ぎ出すもの

文・吉田拓生 写真・長谷川徹

 これがもし20代の時だったら「クルマの哲学」などという大それたテーマについて語るなんてまだ早いと言って逃げ出しただろう。

 じゃあもうすぐ49になろうとしている今ならどうか? クルマに乗りはじめてから、とりあえず30年は経っているし、何か語れることがあるのかもしれない。というか、哲学なんて、それほど大それたものではないと決めつけはじめている自分もいる。

 ボクのまわりには70代のクルマ好きジーサンがけっこういるのだが、彼らと話すと「次はどのクルマが欲しい」とかなんとか、うわ言のように繰り返している。歳だけ食って大して高尚なアタマはしていないな、と。

 クルマの哲学は、それを考える人の数だけあるのかもしれない。初心者マークだろうが高齢者マークだろうが、各々の車歴、経験、気持ちの積み重ねでいいのだと思う。ただし、自分の言葉でストーリーの一貫性を証明できなければならない。

 じゃあオマエのクルマ哲学は何なのかと問われると、自分のことだけに難しい。一貫性ということで言えば、イギリスのMGというメーカーの古いクルマを、27年ほど所有し続けていること。たぶんこれが、僕が自分のクルマ哲学という言葉に置き換えることができる唯一のものかもしれない。

 僕は人とツルむかわりに、普段愛車と対話をしながらひとりで走っている。そして書棚にあるMGに関する10冊以上の洋書を繰り返し読み込んでおり、歴史や開発の背景、構造や愛車の状態、ドライビング法等々、日々新たな発見をしている。僕にとってクルマは人付き合いのためのネタではない。MGに関する原稿を頼まれるなんて数年に一度だから、仕事のネタというわけでもない。

 僕が感心しないクルマ哲学ということであれば容易に言い表せる。クルマをとっかえひっかえしているパターンだ。クルマ自体が探求すべきレベルになかった。いやいや、おおよそ1台のクルマに対する尊敬や探求心が足りない。ただただそれだけだろう。

 その手のオーナーに共通するのは、人の目を気にしているということ。限定車とか現存数台なんていうハクがついたクルマに行きがちな人は、他人がおいそれと真似できない希少性に酔っているのだと思う。でも大切なのは、愛車とオーナーの結びつきの深さだろう。つまりクルマの哲学とは、ヒトとクルマがある程度時間をかけて作り上げなければならない類のものだといえる。

 とはいえきっかけは重要だ。「フェラーリが欲しい」などという思いを生まれながらに抱いている人はいない。憧れの発生には、なんらかの影響が欠かせないのである。クルマ好きの親の影響、友達の影響、メディアによる影響……。だがそんな影響だけで自分らしい愛車にはたどり着けるわけでもない。

 ちょっとしたきっかけを、自らの数えきれないほどの経験によって圧縮して、時に中和して、大切に育ててようやく、奥行きのある1台と出会えるのだと思う。

 クルマ哲学はありふれている。だが混沌としたそれは、クルマ好きが人生をかけて紡ぐべきものでもある。


「クルマに哲学は必要か」の続きは本誌で

ジャーマンプレミアム3の未来 岡崎五朗

自由を求める心と竹ぼうき 大鶴義丹

マーケティングから生まれるクルマ哲学 小沢コージ

人生をかけて紡ぎ出すもの 吉田拓生


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