特集 今、クルマに足りないもの Happiness

写真・長谷川徹

 AE86に四半世紀以上乗り続けている山田弘樹は、小型のFRハッチバックがあればクルマ好きはもっと増えると言い、古いイギリス車を愛する吉田拓生は、現代のクルマは生涯に渡って持ちたいと思わせる魅力がないと言う。

 また、クルマと女性の関係を書き続けてきたまるも亜希子は、クルマの仕事を女性の活躍する場所にしたいと願い、二輪ジャーナリストの伊丹孝裕は、孤独と向き合うことでバイクの本質が見えてくると考えている。

独りになることを恐れるな

文/写真・伊丹孝裕

 なににでも、ここまではアリだけど、これ以上はナシという自分なりの境目がある。モノに関しては便利と感じるか、余計なお世話と感じるかどうか。スマホやカーナビはナシの筆頭である。

 嫌なのは、ナシだと困る人達の感情や行動に巻き込まれることだ。それらが使えないというだけでなにも調べられず、どこにも行けず、思考停止に陥る人のパニックに当てられてこっちもイライラ。アリに慣れると自分だってそうなる可能性は否定できないものの、いまのところガラケーと昭文社のツーリングマップルで事足りている。お尻に温水をかけられるのもまっぴらごめん。自分のお尻くらい自分で拭くし、豪邸に住んでいるわけじゃあるまいし家の床くらいホウキで掃く。

 自分が圧倒的に少数派なのは分かっていながら、多数派にどうしてもストレスを感じてしまうのだ。それを知る仲間内からは「頑固ジジイ」だの、「昭和なひと」だのとあきれられ、ルンバが欲しいと思っている妻に至っては、自分の旦那があまりにもかたくなゆえ、男性更年期障害の一種なんじゃないかと疑っている。もしかすると、実際そうなのかもしれない。

 この世界にバイクがあって本当によかった。バイクに乗れば、たとえ束の間でも世の中のあれこれから遮断され、ストレスの源から解放されるからだ。なにより人と積極的に交わらないで済む。望んで孤独になりたい時、バイクほど都合のいいツールはない。

 夏にはグローブの中で汗ばんだ手をジーンズで拭い、冬には風にさらされて凍えた指先をシリンダーフィンで温め、たまさか雨に降られればなおよし。「ここではないどこかへ向かっている自分」という絵面の中で俄然ヒロイックな気持ちが満たされていく。誰の心の中にも片岡義男がいるのである。

 『長距離ライダーの憂鬱』を抱えながらひた走り、『小牧インタチェンジで待ちぼうけ』を食らい、『ときには星の下で眠る』。それがライダーの正しい孤独であり、幸せだと思う。

 その時、ナビの画面を注視していたり、ヘルメットに付けたムービーの画角を気にしていたり、グリップヒーターをありがたがっていたり、仲間とインカムでぺちゃくちゃしゃべっていてはすべてが台無しなのである。アイテムが増えれば増えるほど、その世界がどんどんインドア的になっていくようでうんざりする。だったらバイクである必要がない。

 いち、抜けた。

 バイクにキーを差して走り出す時、求めている感覚はそれに近い。ややこしいことを放り出し、ただスピードの中に身を置きたい。そんな気持ちの高まりに応えてくれるのがバイクだ。

 絶対的な速い遅いは問題ではない。時速30キロでも300キロでも、それを自分で作り出している責任と、それがすべて乗り手に委ねられているという自己完結性が心地いいのだ。

 誰かに共感してほしいわけでも、誰かとなにかを共有したいわけでもない。ヘルメットを被れば、そこが自分だけの空間に変わり、スロットルを捻れば、そこから自分だけの時間が始まる。ひとりの世界に没入できるからバイクは素晴らしい。他では決して代用が効かない自在のツールなのだ。

 バイクの本質は100年前も今も変わらない。どんなに速くなっても、どんなに快適になっても暑くて寒くて濡れる。そして転ぶ。少なくとも今はまだそうだ。

 危険で非効率的で社会に対する貢献度が限りなくゼロに近い乗り物。なのに、それをわざわざ作るメーカーがあり、後世に残そうと継承する人がいる。絶滅しそうな気配は微塵もない。

 無くても生きていける娯楽と言われればその通り。その一方で、スロットルを開けるというただそれだけのことに興奮と快楽を覚える僕らのような人種もいる。

 だからひとり孤独の中でこっそり楽しむくらいでちょうどよく、文化的な趣味になる必要も社会的に認知される必要もない。無くなりさえしなければ、それだけで充分幸せなのだ。


特集 「今、クルマに足りないもの Happiness」の続きは本誌で

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独りになることを恐れるな 伊丹孝裕


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