おしゃべりなクルマたち Vol.97 自動車専門誌の役割

 夏の終わり、日本からやって来た友人と旧交をあたためた。彼はフリーで自動車を書くことを稼業とする、いわば同業者。

 私がもっとも信頼する人物で、仕事の悩みのみならず、メカとしての自動車を教えてもらうことも多く、たとえば昨今のターボ・ブームの意味を私に解説したのも彼である。難しいことを分かり易く説明するという、この世でもっともムツカシイことが出来る人間なのだが、この日は珍しく彼に悩みを打ち明けられた。

 「例の燃費改ざんの問題、今の日本ではなかなか自分の思いが読み手に伝わらなくてオレ、悩んでる」

 現在、問題になっている日本メーカーによる燃費の数値を虚偽申告した一件に、強い怒りを感じる彼は、どうしてこういうことが起きたかを、あらゆる角度から分析することは、自動車を書く者の使命だと思っている。特に自動車を愛するヒトを読者に据える専門誌にこの一件について、自分の意見を記すことを意味あることと考え、そうして来たわけだが、「でもね、今の日本では最終的に会社全体を糾弾したり、裁きを下さないとメーカー寄りだって批難される」、こう言うのである。「不倫を悪いことだって言わないと許されない、それと同じ感覚」と友人は付け、私は思わず苦笑した。

 彼の気持ちが私には痛いほどわかる。不倫話もその通りだと思う、これはさておき、専門誌は広告出稿を含めて自動車メーカーの協力なくして成立しない。ここが辛いところだと感じる瞬間を、自動車雑誌に勤めていたとき、私は嫌というほど味わった。批判をすればメーカーに嫌われ、褒めれば(メ
ーカーの腰巾着と)読者に責められる。悩みに悩む毎日だったが、しかし歳を重ねてわかったのは、専門誌は、私たちが幸福になるように自動車をよりよく進化させるために貢献すべき読み物だ、ということで、ここにブレがなければ進んで行けるはず。専門誌に寄稿する者はクルマが放つコトバの委託者であり、作り手の志を自分のなかで消化して伝える役割もあるだろう。だから、一般誌は会社の起こした不正を“悪さ”としてバッサリ斬っても構わないが、専門誌はたとえば“悪さ”に苦しむ社員の声を意識的に伝えてもいいいのではないかと私は考えるのである。社会正義を振りかざし、規則違反を批判して終わらせるだけでは生まれることは何もない。進化など、遠い話。

 たとえば今回の出来事について燃費とはなにか、それを掘り下げることも大切で、そうすることで問題の根が見えるはずだし、結果、万が一にも情状酌量の余地があると判断すればそれを書くべきだ。自動車が抱える“事情”の複雑さは驚異的だから、こういうことだってないとは言えない。それが今という時代。

 私は旧友を励ますつもりで拳を振り上げがなり立てたが、最後に彼が言ったことに凹んでしまった。「いや、ボクたちは自分の思いが伝わる書き方が出来ているか、問題はそこにあるのかも知れない」 今月、私の言いたいことは果して伝わっているだろうか。

文・松本 葉

Yo Matsumoto

コラムニスト。鎌倉生まれ鎌倉育ち。『NAVI』(二玄社)の編集者を経て、80年代の終わりに、単身イタリアへ渡る。イタリア在住中に、クルマのデザイナーであるご主人と出会い、現在は南仏で、一男一女の子育てと執筆活動に勤しんでいる。著書:『愛しのティーナ』『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)など。

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