21紀少年はドライブにいく夢を見るか?

「2020年オリンピック・パラリンピックでの無人自動走行による移動サービスや、高速道路での自動運転が可能になるようにします。

 このため、2017年までに必要な実証を可能にすることを含め、制度やインフラを整備いたします」

 ’15年11月5日、総理大臣官邸で行われた第2回「未来投資に向けた官民対話」での、安倍晋三総理大臣の発言である。自動運転の実用化に向けて、国として大きく舵を切ったこと示している。

 自動運転が実用化されるとどんなメリットがあるのだろうか。喧伝されているように、乗員はリラックスした姿勢で新聞を読んだり、携帯端末をいじったりして過ごせるようになるのだろうか。あるいは、仲間とワイワイ楽しい時間を共有することができるようになるのだろうか。

 こうした、自動運転によって得られる目を引きやすいベネフィットは、今までのクルマでは得られなかった新しい価値である。本当に必要かどうか、どれだけ欲しがっている人がいるかどうかはわからないが、完全自動運転が実用化すれば手に入る機能のひとつではある。

 しかし、「自動運転の真の狙いはそうではない」という思いで、実用化に欠かせない基準づくりに取り組んでいるのが国土交通省だ。自動運転を実用化するには3つの要素が必要である。1つめは「技術」で、これは主に自動車メーカーやサプライヤーが関与する。どんな状況でも正しい判断~操作を行う技術を確立することも重要だが、自動運転はクルマが搭載する機器のみで自律的に行うのか、それとも外部と通信して精度を高めるのかといった、自律かコネクテッドかの議論もあり、まだ道筋は見えていない。

 2つめは「法律」だ。例えば現在の国際基準では10㎞/h超での自動ハンドル操作は禁止されている が、この基準が改正されない限り、高速道路での自動合流や分流などは実用化できない。

 3つめは「責任の所在」だ。完全自動運転が実用化されると、ドライバーはハンドルを握らなくていい。その状況で交通事故が発生した場合、誰が責任をとるのか。操作はしていないが、乗っている人間か。それともクルマを作ったメーカーなのか。実は、世界のどこでも明確な方向性は示されていない。自動運転できるクルマができただけでは不十分で、3つの要素がすべて整わないと、完全自動運転は実用化できないのである。こうした数々の課題をクリアする必要があることを考えると、総理が発言した20年に実用化を目指すという目標は、相当にチャレンジングと言わざるを得ない。

 法律の整備を受け持つ国土交通省は、自動運転の実現により期待される効果を3つ挙げている。「これが実現するから、積極的に応援する」というスタンスだ。彼らが期待しているのは、ニーズがあるかどうか分からない新しい価値ではなく、自動車社会が抱えるマイナスの側面を少しでもプラスに転じていくことである。例えば、交通事故の低減がそうだ。

 自動運転というと、ドライバーは運転操作から解放され、代わりに他のことができる、という切り口での報道が目を引くが、そもそもなぜ運転をドライバーに任せず自動にするかというと、安全性を向上させるためである。交通事故の96%はドライバーに起因するというデータがある。運転操作をドライバーに頼らず、クルマに任せれば事故は減る。道路上を走るクルマがすべて自動運転になれば、理論上、事故はゼロになる。

 そんな夢のような話、と思うかもしれないが、自動運転技術はすでに身近にある。スバルのアイサイトに代表される自動ブレーキがそうだ。自動運転は自動ブレーキのような「止まる」機能だけでなく、「走る」「曲がる」のクルマの基本機能をすべてカバーする技術の集合体と考えればいい。

 自動で「走る」機能もすでに一部実用化されており、追従機能付きのクルーズコントロールがそうだ。これを発展させて自動運転を実現すれば、車間距離や速度管理の精度が高くなり、渋滞の緩和や解消が期待できる。高速道路で上り勾配に気づかず速度が落ちて、渋滞の原因をつくることもない。渋滞がなくなれば、燃費も良くなる。事故の低減が効果の1つめなら、渋滞の緩和・解消は、自動運転によって期待できる効果の2つめだ。

 3つめは少子高齢化への対応である。とくに地方では公共交通の衰退が進んでおり、運転能力の衰えた高齢者から移動の機会を奪っている。「ラストワンマイル」と言われる、最寄りの交通機関から自宅までを完全自動運転でカバーすれば、この問題の解消につながる。また、トラックなどは運転者の不足が叫ばれているが、自動運転技術を利用して隊列走行を行えば、ドライバー不足を解消できるし、環境負荷も低減できる。

 自動運転の真の狙いと本当の効果は、新しい価値を提供することではなく、現在我々が直面している課題を低減したり解消したりすることにある。それだけでも大いに魅力的だと思うのだが、どうだろうか。

文・世良耕太

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