憂いはいらない
文・若林葉子
「ピンポーン」。ETCの通過音で我にかえった。高速の入り口券を取る癖が抜け切れず、今でも窓を開けてしまうことがある。誰に見られているわけでもないのに慌てて窓を閉めるが、その時、なんだか懐かしい匂いをかいだ気がした。
加速レーンに入ると思いっきりアクセルを踏み込む。ウーンとエンジンが唸りをあげ、スピードが増していく。──合流。小柄なボディでブンブンと懸命に走る健気さに触発されて、思わず前のめりな気分になるけれど、思い直して走行レーンで流れに乗る。今日は早々に仕事を切り上げたのだ。慌てることはない。
ドアのウィンドウ越しには西日がじりじりと肌を照りつけている。腕に日焼け止めを塗るのをまた忘れたなと思いながら、そう言えば、さっきの匂いは子供の頃の夏の香りだと気付いた。ちょっとセンチメンタルな気分に浸りたくなって、もう一度窓を開けた。
ばたばたと湿気を含んだ生ぬるい風が頬を打つ。そう言えばあの頃は──、夏の日差しを恐れることなどなかった。
「帽子をかぶっていきなさい。ご飯までには帰ってらっしゃい」。母との約束のうち2つ目が時に危うくなるほど、どこで何をしていたのか、日がな一日、太陽の下で飛び跳ねる少女の自分がよみがえる。
八月には母の田舎で過ごす、一年に一度の特別な時間が待っていた。夜になれば天の川が空を覆い、ある時は祖母に手を引かれて懐中電灯の明かりを頼りにホタル狩りへ。捕まえて家の庭に放した日の夜は興奮して眠れなかったっけ。
自然公園に出掛けた時には、特大のアブに驚いて悲鳴を上げ、あんまり勢いづいて走りすぎて崖から落ちそうになり、夕方になるとトンボの群れが空を茜色に染めた。
あの頃は何の憂いもなかった。ただその一瞬を心に刻んだ。夜、眠りに落ちる刹那(せつな)まで、幸せな気持ちは続いた。
いったいいつから太陽を厭(いと)うようになったのだろう。いつから明日のことばかり思い煩うようになったのだろう。
──少女の頃にトリップしているうちに、もう馬掘海岸が近い。海のそばで見る、暮れなずむ夏空の美しさと言ったらない。まるで宝石箱を開けたように家々の灯りが幾百の輝きを放ち、空では昼と夜がせめぎあって、やがて夜の帳(とばり)が下りるまで、境界のない色の饗宴が繰り広げられる。
もう少女の頃のようにどこまでも全速力で駆けることはできないけれど、今は愛しき相棒が海まで自分を運んでくれる。またいつでもここに来さえすれば良いのだ。
そう、憂いはいらない。
MAZDA『DEMIO』