松本 葉の自動車を書く人々 最終回 岡崎五朗

この連載の最終回に登場する〈自動車を書く人〉は、本誌でお馴染みの自動車評論家であり、同時に『クルマでいこう!』(テレビ神奈川)のメインキャスターとして多くのファンを持つ岡崎五朗氏。

Goro Okazaki
1966年生まれ。モータージャーナリスト。青山学院大学理工学部に在学中から執筆活動を開始し、数多くの雑誌やウェブサイト『Carview』などで活躍中。現在、テレビ神奈川にて自動車情報番組 『クルマでいこう!』に出演中。

 彼は私がかつて多くのことを教えられた自動車ジャーナリスト、岡崎宏司氏のひとり息子で、岡崎さんから息子である五朗氏を紹介されたとき、彼はまだ大学生だった。礼儀正しい青年だったが、自動車をよく知っていることに加えお父さん譲りの運転の上手さには既に定評があって、いずれ父の道に入ることを感じさせた。 実際、あっと言う間に男性誌の自動車ページや自動車雑誌のインプレッションに彼の名前を見つけるようになる。それはもし彼が岡崎という苗字と覚え易い五朗という名前を持っていなかったら、宏司氏の息子とは気づかないであろう、そんな貫禄を持ったものだった。私がいまだ五朗くんと呼ぶ彼は大学生時代から始まった長いキャリアを持つのである。

 2世代の〈自動車を書く人〉が出ていることに感慨を覚えるが、この感慨はちょっと逆説的。自動車はずっと在るモノのように捉えているが、自動車大国となった日本で家庭にクルマが浸透したのも自動車にまつわる書き物が一般的に知られるようになったのも60年代以降、〈書く人〉も日本では2世代がマキシマムなのだ。たとえば3代目、4代目が出現しているイタリアとは状況が異なる。

 にもかかわらず自動車を書くことにはバリエーションがあることもふたりに教えられる。親子の立ち位置の違いこそ、急速に発達した日本の自動車の歴史、役割の変化、ここにも感慨を覚える。

 父は多くのエッセイを記し、今もその活躍は続いているが、自動車に関しては機械としての性能の評価を軸とする。徳大寺有恒氏がマエストロと呼ばれた時代、岡崎宏司氏はプロフェッサーと称された。メカニズムに強く、限界性能を唯一、理解できる自動車ジャーナリストとして知られていた。

 五朗くんもまた、工学部出身の理科系、機械工学の分野への造詣が深い。ソリッドな知識を備えるが、彼の特徴は「物申す人」であること。彼は作り手に物申すが、同時に乗り手にも物申す。この立ち位置にブレはない。私は彼の立ち位置をとても尊敬している。今の日本の〈自動車を書く人〉にいなければならない存在だと思う。それでトリを飾ってもらうことにした。

 『5人乗りなのに4人分のヘッドレストしか付いていないクルマがあることをご存知だろうか。法律では許されているから、と言ってしまえば元も子もないけれど、僕だったら定員分のヘッドレストが付いていないクルマは買いたくない。ヘッドレストのない座席は怪我をする確率が明らかに上がるからだ』

 こんな書き出しで始まる原稿は『カートップ』に記されたもの。本文中に説明がなされている通り、ヘッドレストと呼ばれるヘッドレストレイント(頭部拘束装置)についてその必要性と、にもかかわらず欠如している自動車があること、欠如の所以が記されている。彼の「物申す」姿勢がもっともシンプルに理解できると考え、引用してみることにした。

 シンプルとする所以はヘッドレストという分かり易さもあるが、この原稿には我々読者に「考えてみて下さい」と柔らかく語り、作り手に「どうして全てのシートに採用しないのですか」と柔らかく問うているから。良識に訴えるが、誰も壁に押し付けないのも彼の書き方の特徴。

 『本当は彼ら(註 :開発責任者)だってヘッドレストレイントを省略するのが正義だなんて思っていない。けれど、乗車定員を削ることなく、1円でも安く、1グラムでも軽くつくりたいという企業論理が、エンジニア個人の良心を封じ込めてしまう』

 最後は自らの襟を正す。

 『こんな状況を変えるには、3点式シートベルト同様、法律による義務化が必要だ。それが実現されるまでは定員分のヘッドレストレイントが付いてないクルマを買わないこと、そして我々メディアには、ヘッドレストレイントの重要性を繰り返し述べていくことが求められる』

 責任と自覚を分け合うとても説得力のある結び方。ロジカルだ。

 ロジカルというのは彼と接していつも感じること。五朗くんは明るく清々しいが、同時に醒めている印象を受ける。話している最中に驚くことも感嘆の声を挙げることも(たまには)あるけれど、熱の篭ったそれを聞いたことがない。私は熱しやすい性格だが、一緒にいると私の熱に合わせてくれている、時々そんなふうに感じる。

 物事を感情で斬らない。同じことが原稿にも感じられる。彼の原稿で好きなのはその論理性。ぐうの音も出ない。でも時々、彼は何か違う想いを持っているのではないかと感じることがある。それはおそらく生身の五朗くんと話したことがあるという知り合い特権に因るものなのかも知れない。だとすれば彼の書き物と性格から受ける印象を交錯させることはズル。どんな慌て者が記しても書き物が落ち着いていれば、それは〈落ち着いた書き物〉である。一方で慌て者の記した〈落ち着いた書き物〉にはどこか慌てたところがある。それが書くということだと思う。

 物申す五朗くんはインプレッションも上手だ。その上手さは解説の旨さ。彼の原稿を読むと最新メカニズムでもディーゼルゲイトでもダウンサイジング、自動運転、何でもよく分かる。しかしそこにエモーションは感じられない。

 優れた自動車と心打つ自動車は違う。性能や数値では語りきれないところがクルマの魅力であり複雑さ。私自身がクルマを書くとき、官能的要素が性能のよさ(悪さ)を超える瞬間をどう捉えるか、どう記すか、ここに躍起になる。でも、五朗くんは躍起にならない。それが不思議でならない。

 それで尋ねてみることにした。「あなたってエモーションあるの?」

 彼が笑う。「あるよ、当たり前でしょう」

 だったらどうしてあなたはエモーションを盛り込まないのだ、と聞いてみた。なんだか自白を強要しているみたいで聞く声が小さくなったが、するとポツリと彼がこんなことを言った。

 「クルマをエモーションで斬るヒトの原稿を読むと僕はホントか? って思う。読むヒトに(エモーション)を感じさせるためにわざとそうしてて、本人はエモーションなんて感じてないんじゃないかって」

 彼の言葉にとても驚き、私はただ「フーン」とそればかりを繰り返したが、すると五朗くんがもっと驚くようなことを言った。それはロジカルで心の底にある感情を見せないと思っていた彼の口が言ったことだった。

 「僕は現行カローラに乗ると自我がドロドロ溶け出すような気がする」

 彼が尊敬する徳大寺有恒氏は名車を定義して「物語のあるクルマ」と記している。

 「(中略)では、物語を持つクルマとは、どういうクルマだろう。/クルマの背後にひかえる「世界」があるということだ。「世界」とは、そのクルマを所有し乗ることによって、あたかも自分が人生の主人公のように感じられる〝ドラマ喚起力〟と言ってもいいかもしれない」(『駆け抜けてきた』東京書籍)

 五朗くんが言った「自我がドロドロ溶ける」感じは徳大寺氏が記したことの正反対の意味だと思う。それを彼はこのクルマに乗ると「オレなんかこの世にいなくていいんじゃん。オレなんかどうでもいい存在なんだって思えてくるんだよね」と表現する。それから「皆にそういう風に生きて欲しくないんだよね」、こう付けた。

 皆にそういう風に生きて欲しくない。

 教師が言ったのでも首相が言ったのでもお坊さんが言ったのでもなかった。自動車評論家の言葉。

 「VWゴルフが出たのは’74年、カローラは’66年、どちらも初期モデルは国民に良質な自動車を提供したいという思いが伝わってくるものだった。ゴルフは正当な進化を遂げている。現行ゴルフに乗るとドイツという先進国に生まれた人々の誇りを感じさせる。でもカローラは庶民はこのくらいでいいだろうという計算が見える。日本仕様のカローラは物言わぬ民の為に作られている感じがする」

 それから彼はこうも言った。

 「日本はGNPでは世界3位、教育レベルも高い。なのに、ベーシックカーがこれかよって思う」

 そしてこうも。

 「僕はユニクロでファッション論を語るべきじゃないと思ってるけど、少なくともユニクロのコミュニュケーションを見る限り、一般レベルのファッション意識を上げようとする気概が感じれる。でもカローラにはそれが感じられない」

 ユニクロが出たところで話が脱線した。日本に里帰りするたびに私は商業施設が増えていることに驚くが、そこに入っているのは同じようなお店ばかりに感じられる。増える商業施設に特徴がない。それで「ユニクロって何処にでもあるね」と言った。「そうそう」と五朗くん。「で、何処も驚くことにヒトが一杯」と私。すると彼がこう言った。

 「でもそこに居る人々はみんな大切にされているだろうかって思うこと、あるなぁ」

 彼はルノー・カングーに乗るとシートの良さに感激するそうだ。代わって日本の商業車に乗るとシートの悪さに愕然とする。加えてABSはオプションだ。どちらも労働者のための自動車。

僕は日本に人間をもっと大切にする国になって欲しいよ。日本がいい国になるためにはひとりひとりが自我に目覚めないとダメだと思う。

 自動車評論家2代目である彼は一般のエンスージアストやオタクの若者に比べたら幼い頃から乗ったクルマの数は圧倒的に多いはず。自動車に飢餓感も枯渇感も持たずに育ったと想像する。それが彼をクールで論理的な〈自動車を書く人〉に育てたと思って来たが、彼にとって恵まれた環境はあらたな問いかけを投げかけていた。

 「自動車を書く人」はクルマが放つコトバの委託者。音も匂いもメカニズムもパフォーマンスもすべてコトバ、それを言葉に記すのが書き手の使命だが、クルマが放つコトバは乗り手のコトバでもある。時に、物言わぬ民のコトバ。それを五朗くんは自らの言葉で伝えようとしている。

 2016年の日本の自動車生産台数約920万台。世界第3位。自動車大国ニッポンには多くの〈自動車を書く人〉がいる。渡辺敏史氏はこのクルマに乗って幸せになれるかと考え、福野礼一郎氏はクルマを人間の叡智の結晶とする。徳大寺有恒氏にとって自動車は人生。渡辺慎太郎氏は文字で記すことにこだわり、斎藤浩之氏は自動車を書く職人だ。

 この連載では取り上げられなかった〈自動車を書く人〉にも素晴らしい人々がいる。

 『エンジン』の村上 政編集長は自動車を書くことと思想から宇宙までをシャッフルしようと試みる。現在の自動車の書き手を牽引する存在、カーグラフィック社代表の加藤哲也氏の記すものは珠玉である。クルマを表現する言葉使いの綺麗さが胸を打つ。本誌にも寄稿している今尾直樹氏の原稿の上手さは神がかっていると思うことがある。書く人が百人いれば1台の自動車は百の顔を見せる。これが自動車を文字に記すことの面白さだと思う。

 これからも多くの自動車メディアが絶えることなく〈自動車〉を記して行って欲しいと思う。自動車エッセイという分野が確立したらどんなに素晴らしいだろう。クルマを文字で読む楽しみを多くのヒトと分かち合いたい。

Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターをへて1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。

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