粋 クルマの美学

粋とは何か。
粋であることはカッコイイことだが、カッコイイことが粋であるとは限らない。渋い=粋でもない。


人が羨むクルマに乗っていても、人より速く走れたとしてもそれが粋であるとは言えないのだ。

そして粋とは、作法ではなくカタチでもない。

粋であるということは、ある価値観を持った美意識であり生き様なのである。果たしてクルマやバイクを粋に乗るとはどういうことなのだろうか。本来、粋を語ること自体が無粋であり野暮なことだと思う。

しかし今回はクルマやバイクに関わる粋を考えてみたい。


ジャガーにみる英国流の粋

 粋という言葉はよく見かける活字だが、それを詳しく表現することは難しい。我々は普段、カッコイイことをひっくるめて「粋」としてしまっているからである。そんな体たらくなので「クルマ世界の粋とは?」というテーマを掲げられて大いに頭を悩ませた。

 スタイルがカッコイイということであればスポーツカーとも符合するし、ブランドがカッコイイのであればそれは高級車ということになる。混沌とした定義の中でひとつだけ確かなことは、現代車の中で「粋」が薫るのはジャガーである、ということである。

 先日、本邦デビューを果たした新型のジャガーXFに乗り込んで、その室内の狭さにニヤリとさせられた。狭いと言うと語弊があるのだけれど、ジャガーは伝統的に車格に対して室内がタイトに感じられるように設えられているのである。これは、室内をミリの単位で広く確保しようとする、所謂大衆車とは全く異なる趣向から生まれる産物だ。ウエストラインも高く、グラスエリアも決して広くはないので室内は暗くなり、その空間の中でスポットを当てたいところにだけ光が当たって、陰影の見事な「粋」な小空間を作り出す。

 粋な英国車、というと王室であったり貴族的といった言葉が思い浮かぶ。だが貴族が階級制度の上に成り立っていることを忘れてはならない。ジャガーの創始者であるサー・ウィリアム・ライオンズの名前に箔を与えるサーの称号は、ジャガーという自動車メーカーをイギリスを代表するようなブランドとして作り上げた功績に対するものであり、ライオンズの出身が貴族だからというわけではない。

 ジャガーの前身はスワローサイドカーカンパニーと言って、読んで字の如くモーターサイクルに装着するサイドカーを作る工場だった。スタイリッシュなサイドカーで一世を風靡することに成功したライオンズは、次に大衆車オースティン・セブンのボディをスタイリッシュなものに交換する業務に手を染め、これも成功させた。こうした「スタイリッシュたらん」という意思で下積みを続け、よくやく自らの「ジャガー」に辿り着く。

 つまりジャガーは、チャールズ・スチュワート・ロールスのロールス・ロイスやライオネル・マーティンのアストン・マーティンのように出自が貴族的なわけではないが、ブランドが誕生した瞬間から高級車であり、飛びっきりの「粋」を身に着けていたのである。

 しかし粋なジャガーが創始者の閃きひとつで生み出されることがないのも事実で、英国には様々なお手本が存在した。アームストロロング・シドレィやインヴィクタ、ディムラー、リーフランシス等々。さらにはタルボ・ラーゴやヴォワザンといったフランスのクルマにも影響を受けているに違いない。

 クルマ世界における「粋」とは、ことほど左様に、人物ではなく国が、そして国というよりも国の歴史が作り上げてきたようなところがある。だからこそ技術的な視点から徹底的に速さに拘ってクルマ作りをしてきたドイツ車や、便利さを追求した日本車には「粋」を感じることができないし、前輪駆動ばかりになってしまった現代のフランス車からも、「粋」な精神は蒸発してしまっている。現代のアメリカ車ではキャデラックがかなり頑張って再び「粋」な匂いを発しているが、それだってタッカーやデューゼンバーグといった歴史的な流れがあるからこそ作り込める。

 クルマに例えればイメージとしては理解してもらえると思うのだけれど、それでもやはり「粋」という言葉をはっきりと説明するのは難しい。だがそれこそ、我々がクルマのみならず、あらゆる英国的なものに憧れる気持ちの源泉となっているに違いない。

文・吉田拓生

ジャガー XF
車両本体価格:6,680,000円(25t PRESTIGE、税込) 
総排気量:1,998cc 最高出力:177kW(240ps)/5,500rpm
最大トルク:340Nm(34.7kgm)/1,750rpm

ライディング アティテュード

~「人と違う」は野暮な選択

 「人と同じモノはイヤだったから」

 話が愛車のことに移り変わると、そんな風に語る人はけっこう多い。大抵はちょっと珍しい色のバイクに乗っている程度だが、中には希少なモデルや少し変わった仕様に乗っていたり、バイク自体はメジャーな存在だとしても凝ったワンオフのカスタムが施されていたりすることもある。

 確かにそれは大多数の人とは違うのかもしれない。違うのだろうけれど、その人自身を映すモノではない。なぜなら、「人と違う」がモノ選びのスタート、もしくはゴールになっている時点で人の目や評価を気にし、それにとらわれていることに他ならないからだ。とても窮屈で不自由な価値観だと思う。

 ごくごくありふれたバイクでも全然かまわない。その人が本当に気に入り、とことん味わい尽くしていれば、それこそが「人と違う、その人だけのバイク」のはず。それを粋というのかどうかは分からないが、少なからずそこに美意識のようなものが宿るのは確かだ。

 以前、勤めていた会社に毎日ベスパで通勤している人がいた。年式も走行距離も不明。外装の色も赤なのか茶色なのか、それとも単にサビの色でそう見えていたのかも不明。頑強なはずのスチールモノコックボディはいたるところに穴が空き、まさに朽ち果てる寸前…という凄まじいポンコツっぷりだった。その代わりと言ってはなんだが、エンジンは絶好調! …ということもなく、「会社に着くまでに1回しかエンジンが止まらなければ万々歳。2回や3回止まるのはまぁ普通」と、その人は事も無げだった。

 なんかいいな、と思って見ていた。その人はそのベスパじゃなければダメな人だったし、そのベスパもその人だからこそエンジンが掛かっていたのだろう。長い時間と深い付き合いが築き上げた、強い情がそこに見て取れたからだ。

 別にボロいことに味わいがあるとか、ヤセ我慢がバイクの美徳という話ではない。バイクが乗り手の一部になっているような、その様がカッコよかったのである。

 クルマと少し事情が異なるのはまさにそこだ。クルマは静的に存在しているだけである種の世界観が完成するものの、バイクはそこに乗り手の存在が感じられないと、どこか未完成で物足りない。単独では自立できないという物理的な問題もあるが、やはり動いていればこそ。走って走って、時々壊れたり転んだり。タイヤをすり減らしてオイルをにじませ、明日はもう少し上手くなりたいと願い、いつかもっと遠くへ旅してみたいと思いを巡らせながらまた走る。

 もしもバイクに粋な世界があるとすれば、そういうフィジカルの果てに辿り着いた1人と1台の濃密さが作り出すものだと思う。

 だから、スペックや価格、メーカーのヒストリーやブランド価値に対するプライオリティはクルマのそれよりもずっと低い。まして人と違うかどうかはなんら問題ではなく、その人がどう乗っているかどうか。そこに尽きる。

 そういう意味でバイクはちょっと怖い乗り物でもある。なぜなら、スロットルの開け方や車間の取り方、選ぶウェア…と、そのどれもが乗り手の心根としてバイクに映し出され、人間性が露わになるからだ。折れて曲がってサビの浮いたフェンダーは使い込んだ風格の証なのか、単なる無精なのか。本当のところは分からなくても、間違いなくそれはたたずまいとして伝わってくるのである。

 粋か、粋じゃないか。その境目を定義づけるのは難しいものの、なにげない振る舞いでどちらにも転がってしまうのがバイクだ。いとも簡単に無粋な世界に陥りそうになるのを律しながら乗り続ける。ある意味バイクはとても不自由だが、そこに踏み止まろうとする人を強くしてくれる乗り物でもある。

文・伊丹孝裕

「特集 粋 クルマの美学」の続きは本誌で

ジャガーにみる英国流の粋
吉田拓生

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